Vampire WeekendのMansard Roof
本日の1曲。
Vampire Weekend - "Mansard Roof" (2008)
ファーストカットから思いっきり、ジャン=リュック・ゴダール監督の『ウィークエンド』へのオマージュ。
こちらは『ウィークエンド』フランス版予告編。
ちなみにヴァンパイア・ウィークエンドでは、"Oxford Comma"のMVもゴダールの影響が強く、この2つのMVで私はすっかりヴァンパイア・ウィークエンドにハマりました。
Vampire Weekend - 'Oxford Comma' (2008)
ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』
Henry Mancini & His Orchestraの「Megeve」
shazamした曲。
Henry Mancini & His Orchestraの「Megeve」(1963年)
ヘンリー・マンシーニについては説明の必要はないでしょう。
映画『シャレード』のサウンドトラックの1曲で、「ムジェーヴ」はフランスのリゾート地の名前。
幾原邦彦監督の映画体験インタビュー
『輪るピングドラム』のクラウドファンディング限定ブックレット『ペンギン1号責任編集!? 公式のうすい本』が届きました。
さっそく読んでみると、幾原監督インタビューのテーマは、「幾原監督の映画体験 幼少時~学生時代編」。
最初に出てくるのは、東映まんがまつりの『空飛ぶゆうれい船』(1969年)。
続いて、『ゴジラ対ヘドラ』のアーティスティックな画面の話や、スピルバーグの『ジョーズ』のディテールの積み上げ、デ・パルマ*1の『キャリー』のバケツロープのカットバックの話・・どれを取っても作り手目線でおもしろいです。
もし続編があれば、『田園に死す』、『エル・トポ』、『サスペリア』についてもぜひインタビューしてください。
国立映画アーカイブの「MONDO 映画ポスターアートの最前線」展
すこし前に、国立映画アーカイブの展示企画「MONDO 映画ポスターアートの最前線」に行ってきました。
MONDO(モンド)とは、テキサス州オースティンを拠点に、映画館チェーンの傘下でオリジナリティあふれる映画ポスターを制作してきたアート・プロダクションの名前。
今回の展示の背景は、こちらの記事で語りつくされています。
実際に見ると、『フランケンシュタインの花嫁』のポスターはあたかも大友克洋のようですし、『シャイニング』はタイプライターの上半分がなにかの部品かと思いきや、よく見ると斧で、映画を観た人にだけよくわかる仕掛け。
ヒッチコックの『鳥』は、アレンジしてもティッピ・ヘドレンのあの髪型と緑のコートでわかるのに対し、『俺たちに明日はない』は才気が走りすぎて、もはや原型をとどめていない(笑)
映画を知らない人でもスタイリッシュなデザインを楽しめますが、映画をよく観た人ほど何倍も楽しめる、ユニークな展示でした。
『アンチャーテッド』と007、そしてミッション・インポッシブル
すこし前に街中で、映画『アンチャーテッド』の貨物飛行機のシーンを見かけて、スパイ映画の歴代の名シーンを思い出しました。
まずは『アンチャーテッド』から2シーン。
これを観て思い出したのが、往年の007シリーズ。
まずは真っ先に挙げるべき、『リビング・デイライツ』(1987年)のカーゴネット・バトル。
そしてシリーズ最高のアクションとも言われる、『ムーンレイカー』(1979年)の驚異の空中スタント。
スパイ映画といえばこちらも。『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(2015年)のアヴァンタイトル。
ミッション・インポッシブルついでに、『フォールアウト』(2018年)のスカイダイビングも挙げておきましょう。
これは『ムーンレイカー』の逆で、他人のパラシュートを開きに行くパターン*1。
『大人の科学マガジン』Vol.15「大特集 まわれ!映写機」
流れでこんなのも、15年ぶりに本棚から引っ張り出してみる。
『大人の科学マガジン』Vol.15「大特集 まわれ!映写機」(学研、2007年)
「ふろくで遊びました」のコーナーには、青山真治氏が登場(公式サイトにもPDF版がアップされています)。
動くものを撮影する際に気をつけることは、という問いに、
「パン(カメラを振る)しないこと。パンすると、運動そのものはとらえにくくなる。特にバスや電車などの大きな乗り物の場合、カメラで追いかけると被写体は止まって見える。だから、カメラは動かさず、被写体を動かす。画面の中にを行かせる。“入ってきて、出て行く”動きにするのがコツです」
「動く被写体が、明暗、つまり光と影の中を出たり入ったりすることによっても“動き”は強調される。少し斜光になるのを待たないとビル影などが出ない。だから、撮影を午後3時から始めたんです」(両発言とも33p)
このとき青山氏が都電荒川線を撮った映像*1、今でもアップされているかな、と思ってサイトに飛んだところ、無情にも「Flash Playerが必要」との文字が・・・
学研さん、この貴重な映像を、大人の科学のYouTubeページにでも再度アップロードしてみるのはいかがでしょうか。
*1:青山氏と都電といえば、『東京公園』(2011年)もありました。
『STUDIO VOICE』1999年5月号 特集「映画を作る方法」フィルムメイカーズ・マニュアル!
これも20年ぶりに再読。
『STUDIO VOICE』1999年5月号 特集「映画を作る方法」フィルムメイカーズ・マニュアル!(INFAS)
「演出」の項目は、青山真治氏が担当(48-49p)。
「あなたは今、映画を作ろうと考えている。」
「だがあなたの手元にあるのは150万円という限られた金額の金だ。この中であなたは全てを処理しなければならない。」
「どんなに高尚な思想を含んだ物語も、どんなにうまく書かれたシナリオも、すべて具体的な『段取り』に還元されなければ映画にならない。」
『ユリイカ』2001年2月号「特集 青山真治 進化する映画」
これも20年ぶりに読み返す。
『ユリイカ』2001年2月号「特集 青山真治 進化する映画」(青土社)
とくに黒沢清氏との対談がおもしろい。気の置けないやりとりから、いきなりスリリングに切り込んでいく。
例えば、『EUREKA』の長さを考える以下のくだり(88-91p。太字は引用者)。
黒沢 ものすごく素朴な、馬鹿みたいな質問をさせてもらいますが、『EUREKA』はどうしてあの長さなんですか。これは面白いなと思ったのは、『EUREKA』を見終わった僕を含めたほぼ全員が何を言うかと言えば、三時間三七分飽きないんだよと言うんです。(後略)
青山 (前略)要は、ある種の映画的な、あるいは誤解を恐れずに言えば美学的な側面を尊重するがゆえに長くなってしまった、というのがあるんです。(中略)。あたかも目の前にその人がいるかのように、その人をわからせ、お話をわからせ、言っていることをわからせるためにこれだけの時間、さらに言えば町や空気を含めた人物の生きる環境が必要だったんですね。(後略)
黒沢 それをそっくり信用できないと思うんです。(中略)。飽きるから無理やり九〇分にしようという発想でみんな映画を撮っているわけで、飽きさせないということにどのように苦労されたかということを僕はお聞きしたいわけです。
(中略)
黒沢 先ほど「美学的側面」とおっしゃいました。例えば一番典型的なのは、殺されて犠牲者になった女性のサンダルが川に流れていくところがありましたね。何分もないのかもしれないけど、多分それは美学的側面から一分くらいにしたんじゃないのかと思うんです。ストーリー上は、あの女が殺されましたということで、多分巧くやれば一〇秒で説明できます。これが美学的側面から一分だか三〇秒だかあれだけの長さになった。結果、それでより長くなる。(中略)。まさにこの選択 ― 美学的選択と言っていいでしょうが ― がなされたために、三時間三七分になったのではないか。
青山 一旦そう云っておいて何ですが、僕が思うに、実はこれは美学的側面というものではないのではないか。(中略)これはもう本当に黒沢理念に対するアンチとして非常に嫌悪されるかもしれないですが、「情緒」なんですね。
黒沢 情緒?
青山 ええ。「情緒」は物語を語る上でありなんだ、と。ここでこれを一〇秒でやってしまうことと、約一分かけてサンダルが流れてきて「あっ」と人間が見ている間に何か感じてくるもの、その違いが「情緒」なんだと。但しこの「情緒」を情緒として捉えさせるためには前提が山ほど必要なんです。むしろこの前提を積み重ねていくことによって、尺が伸びている。(後略)
(中略)
黒沢 「情緒」という巧い言葉は思いつきませんでした。僕の映画とは全然違う、何が違うのだろうと思ってたところに、いまそう言われたので、そういえば僕の映画には「情緒」がないんだよな。恐怖とかはあるんですよ(笑)。(後略)
青山 僕が思っていたのは「情緒」も機械的な操作にしてしまおうと。そうしてみるとどうなるのかというのは、ちょっと興味がありまして。(中略)。撮って、あ、これは情緒じゃんと思って繋げるのではなくて、初めから「情緒」というものを構造として狙っていく。
この引用部のなかでも省略した部分(たとえば黒沢氏の「話を避けているようなので、あえてそこに行きたいと思います」(89p))や、このあと『EUREKA』がなぜ飽きないのかという話に戻っていくくだり(たとえば黒沢氏の「僕いますごく追及している?いや、していないよね。(91p)」)もほんとうに面白いのですが、そちらは原典にあたっていただくとして、このお二人のやりとりは、本当に、青山氏の『EUREKA』と他の映画の違いや、黒沢氏の映画との違い*1を明晰に説明しています。
そして、昨日の記事で書いた、「ただボーッと見てて、ただ単に自分の中に何か得体の知れない空気が充満する」というくだりと、上記の部分で青山氏がいう「約一分かけてサンダルが流れてきて「あっ」と人間が見ている間に何か感じてくるもの」には、どこか同質のものがあるように思えます。
*1:ただし、黒沢氏が「恐怖とかはあるんですよ(笑)」というくだりは、むしろ「驚き」と言い換えられるかもしれません。
『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』
17年ぶりに再読。
『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』(2004年、リトル・モア)
むかし読んだときは、青山氏がブライアン・デ・パルマの撮影技術、たとえば『殺しのドレス』のタクシーのシーン(139p)や、『キャリー』の紐を目で追うシーン(140p)、『ミッション・トゥ・マーズ』のパーティーのシーン(156p)を称賛するくだりや、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』でお爺さんの手にハンマーを握らせてその手を持って叩かせるようなシーンに「もうめまいしちゃう。ぞくぞくしちゃうよ。」と言ってしまうくだり(112p)を楽しく読んだのですが、今回読みかえしていちばん心に残ったのは以下の発言。
青山 まさに今そう。「愛のなさ」って話でいうと、こないだBSをつけてたらたまたま『地獄の黙示録・特別編』の予告編が流れてたのね。それをボーッと見てて、ああ、これだと。俺の愛のなさのもうひとつのパターンなんだけど、映画というのはボーッと見るものだと。感情移入とか、物語の筋を追うとか、そういうこと一切なしで、ただボーッと見てて、ただ単に自分の中に何か得体の知れない空気が充満する、みたいな。物心ついた頃に、それだけのことなんだって体験させられたのが『地獄の黙示録』だった。それからずっと、感情移入してこの人が好き、あの人が好きとか、そういうことを考えずにただ体験するというか体感するというか、ボーッと見てる。(244-245p。太字引用者)
「自分の中に何か得体の知れない空気が充満する」、これはたしかに優れた映画のひとつの条件だと、年月を経て実感します。