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音楽、映画、読んだ本のメモ帳です

『ユリイカ』2001年2月号「特集 青山真治 進化する映画」

これも20年ぶりに読み返す。

 

ユリイカ』2001年2月号「特集 青山真治 進化する映画」青土社

 

『ユリイカ』2001年2月号「特集 青山真治」


とくに黒沢清氏との対談がおもしろい。気の置けないやりとりから、いきなりスリリングに切り込んでいく。

例えば、『EUREKA』の長さを考える以下のくだり(88-91p。太字は引用者)。

 

黒沢 ものすごく素朴な、馬鹿みたいな質問をさせてもらいますが、『EUREKA』はどうしてあの長さなんですか。これは面白いなと思ったのは、『EUREKA』を見終わった僕を含めたほぼ全員が何を言うかと言えば、三時間三七分飽きないんだよと言うんです。(後略)

 

青山 (前略)要は、ある種の映画的な、あるいは誤解を恐れずに言えば美学的な側面を尊重するがゆえに長くなってしまった、というのがあるんです。(中略)。あたかも目の前にその人がいるかのように、その人をわからせ、お話をわからせ、言っていることをわからせるためにこれだけの時間、さらに言えば町や空気を含めた人物の生きる環境が必要だったんですね。(後略)

 

黒沢 それをそっくり信用できないと思うんです。(中略)。飽きるから無理やり九〇分にしようという発想でみんな映画を撮っているわけで、飽きさせないということにどのように苦労されたかということを僕はお聞きしたいわけです。

 

(中略)

 

黒沢 先ほど「美学的側面」とおっしゃいました。例えば一番典型的なのは、殺されて犠牲者になった女性のサンダルが川に流れていくところがありましたね。何分もないのかもしれないけど、多分それは美学的側面から一分くらいにしたんじゃないのかと思うんです。ストーリー上は、あの女が殺されましたということで、多分巧くやれば一〇秒で説明できます。これが美学的側面から一分だか三〇秒だかあれだけの長さになった。結果、それでより長くなる。(中略)。まさにこの選択 ― 美学的選択と言っていいでしょうが ― がなされたために、三時間三七分になったのではないか。

 

青山 一旦そう云っておいて何ですが、僕が思うに、実はこれは美学的側面というものではないのではないか。(中略)これはもう本当に黒沢理念に対するアンチとして非常に嫌悪されるかもしれないですが、「情緒」なんですね

 

黒沢 情緒?

 

青山 ええ。「情緒」は物語を語る上でありなんだ、と。ここでこれを一〇秒でやってしまうことと、約一分かけてサンダルが流れてきて「あっ」と人間が見ている間に何か感じてくるもの、その違いが「情緒」なんだと。但しこの「情緒」を情緒として捉えさせるためには前提が山ほど必要なんです。むしろこの前提を積み重ねていくことによって、尺が伸びている。(後略)

 

(中略)

 

黒沢 「情緒」という巧い言葉は思いつきませんでした。僕の映画とは全然違う、何が違うのだろうと思ってたところに、いまそう言われたので、そういえば僕の映画には「情緒」がないんだよな。恐怖とかはあるんですよ(笑)。(後略)

 

青山 僕が思っていたのは「情緒」も機械的な操作にしてしまおうと。そうしてみるとどうなるのかというのは、ちょっと興味がありまして。(中略)。撮って、あ、これは情緒じゃんと思って繋げるのではなくて、初めから「情緒」というものを構造として狙っていく

 


この引用部のなかでも省略した部分(たとえば黒沢氏の「話を避けているようなので、あえてそこに行きたいと思います」(89p))や、このあと『EUREKA』がなぜ飽きないのかという話に戻っていくくだり(たとえば黒沢氏の「僕いますごく追及している?いや、していないよね。(91p)」)もほんとうに面白いのですが、そちらは原典にあたっていただくとして、このお二人のやりとりは、本当に、青山氏の『EUREKA』と他の映画の違いや、黒沢氏の映画との違い*1を明晰に説明しています。

 

そして、昨日の記事で書いた、「ただボーッと見てて、ただ単に自分の中に何か得体の知れない空気が充満する」というくだりと、上記の部分で青山氏がいう「約一分かけてサンダルが流れてきて「あっ」と人間が見ている間に何か感じてくるもの」には、どこか同質のものがあるように思えます。

*1:ただし、黒沢氏が「恐怖とかはあるんですよ(笑)」というくだりは、むしろ「驚き」と言い換えられるかもしれません。